
五番星・アリオトのメッセージです。
愛と赦しの教えが、なぜ迫害や侵略にも利用されたのか
地球平和の実現に向けて、マザー・テレサに代表されるような、愛を実践する宗教としてのキリスト教には期待したいところです。
マザー・テレサに限らず、ナイチンゲールにしても、シュバイツァー博士にしても、キリスト教の精神に基づく弱者への愛、とりわけ自己犠牲を伴う愛の実践には、人々を感動させるものがあります。
キリスト教は、地球平和の実現に向けて、大きな力になる可能性があります。
歴史的に見ても、キリスト教がローマ帝国で広がっていった理由の一つには、キリスト教徒による、困っている人や弱っている人への愛の実践が、人々の希望となったことがあるでしょう。
しかし、残念ながら歴史を振り返ると、キリスト教は、他国への侵略や植民地化、奴隷貿易などを正当化するために利用されてきた面もあります。
日本においても、ザビエルらによる布教活動をめぐっては、ヨーロッパ諸国の政治的・軍事的な進出との関係が問題とされてきました。
一方で、布教を進めるために、政治的な権力を利用しようとする動きもありました。
また、それまで迫害されてきたキリスト教が、四世紀にローマ帝国で公認され、やがて国教としての地位を確立すると、今度は異なる信仰を持つ人々を迫害する側にもなっていきました。
その歴史の中で行われた残虐な行為には、大いに反省すべきことがあると思います。
キリスト教の歴史に見られる、異なる信仰を持つ人々を迫害したり、侵略を正当化したりする傾向が、教えのどこから生まれてきたのか。
キリスト教徒自身が検討し、改善していく必要があるのではないでしょうか。
イエス・キリストご本人の教えには、人類の意識を向上させる崇高な教えがたくさんあります。
「敵を愛しなさい」
「迫害する者のために祈りなさい」
「人を赦しなさい」
また、罪のない者が最初に石を投げるようにと語った逸話や、心の清い人々の幸いを説いた山上の垂訓などがあります。
さらに、旧約聖書に説かれていた教えの中から、主なる神を愛し、隣人を愛するという二つの教えを最も重要なものとして示し、その実践を促しました。
挙げればきりがないほど、愛と赦し、自己犠牲、祈り、平和を目指す心など、素晴らしい教えがたくさんあります。
しかし、聖書が編纂されてきた過程には、いくつか検討すべき問題があると思います。
その一つは、聖書がイエス・キリストご本人の教えだけで構成されているわけではない、ということです。
パウロをはじめとする使徒たちの言葉や行動、教えについての記録も、新約聖書に含まれています。
私は、教祖ご本人の教えと、その弟子たちの言葉や行動とでは、重要性に大きな違いがあると考えています。
その違いが、十分に位置づけられているのか、検討する必要があるのではないでしょうか。
また、こうした新約聖書と、ユダヤ教の聖典でもある旧約聖書が、ともにキリスト教の聖書となりました。
確かに、イエス・キリストは、律法や預言者の教えを廃止するためではなく、成就するために来たと語っています。
しかし同時に、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならない、という趣旨の教えも説いています。
イエス・キリストが旧約聖書のすべての内容を、そのまま肯定していたのかどうかについては、十分に検討する必要があるでしょう。
私は、旧約聖書と新約聖書とでは、その重要性にも大きな違いがあると考えています。
イエス・キリストが旧約聖書のどのような教えを受け継ぎ、どのような教えを改めようとしたのか。
旧約聖書の内容を成就するために、何をされたのか。
新しい神との約束とは何なのか。
そして、更新されたり、役割を終えたりした神との約束があるとすれば、それは何なのか。
こうしたことを、できるだけ整理していく必要があると思います。
例えば、旧約聖書の『ヨシュア記』には、ヨシュアが神の命令に従い、カナンの地の住民を滅ぼしたとする記述があります。
このような記述をどう受け止めるのかは、地球平和の実現に向けて、とても大切な問題です。
神の命令によって住民が殺害されたとする旧約聖書の記述については、現代の聖書学や考古学において、遺跡の発掘成果や発見された文書などをもとに、その歴史的な事実関係が研究されています。
しかし、聖書に描かれた出来事が、実際にどのように起きたのかについては、なお議論があります。
こうした記述や、その背景にある考え方を、キリスト教が宗教としてどのように位置づけるのか。
これは、とても重要なことだと思います。
ユダヤ教にも、キリスト教にも、素晴らしい方、偉大な方はたくさんいます。
ユダヤ教徒やキリスト教徒によって救われた方も、歴史上、そして今も、たくさんいます。
しかし同時に、これらの宗教が歴史の中で、苦しみや悲しみを生み出してきたこともあります。
信仰している以上、教えの一字一句を変えることはできない、という思いも理解できます。
しかし、そもそも聖典の成立過程において、さまざまな文献が取捨選択され、聖書が成立してきたことも事実です。
その過程には、人間による判断も関わってきたのです。
地球平和の実現を阻むような教えや、その解釈については、何らかの対処をしていくことができないのでしょうか。
その可能性を検討していく時期ではないでしょうか。
私は、今がまさに、そのような時期であると思います。
これは、イスラム教や、ほかの宗教についても言えることです。
ともに話し合い、考え、地球平和を実現していきましょう。
──アリオト

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